モイーズのパリ音楽院時代の教え子
Claude DORGEUILLEの著した「THE FRENCH FLUTE SCHOOL」という本は僕のモイーズ研究にとって大切な資料となっているが、この書物の中に歴代の教授と毎年の1等賞をとった生徒の名前とコンクールの課題曲の一覧表がある。これを見れば、モイーズがパリ音楽院の教授であったときの最も優秀だった生徒達が一目瞭然にわかる。モイーズの関係した部分だけを引用してみたい。
途中にCrunelleが教授の時代が挟まるが、これについては後ほど。
モイーズのパリ音楽院教授時代に最後の1等賞を取ったのが、シャルル・ダニノ(Dagnino)であることがわかる。
1941年から教授がガストン・クリュネル(Crunelle)になるが、モイーズはこの年から侵攻してきたナチスドイツに抵抗して音楽院で教えることを拒み、郷里サンタムールに疎開してしまう。音楽院はクリュネルを代理に立てて授業を継続する。
大戦終戦後、モイーズは音楽院のフルート科の教授は自分であると音楽院に抗議し、音楽院はモイーズの申し出を受け入れる。しかし、クリュネルにもそれまでの椅子が残され、1946年より教授2名体制となる。しかし、モイーズにとってみれば、歴代1名のみに授けられるはずの教授のポストが、戦時体制のどさくさの中で他の者に奪われ、その後取り戻したとはいえ、両者が対等の扱いであることに我慢がならなかった。
結局、モイーズ一家はパリを捨て、ブエノスアイレスを経てアメリカに移住することとなる。1949年、50年、すでにモイーズはパリに不在であったが、ポストは残されロジェ・コルテ(Cortet)が代理を務めたが、その体制もそこで終結となったのだ。
(1999年6月11日室長Kirio)
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