深尾 須磨子
詩人、深尾須磨子(1888~1974)が渡欧の際に全盛時代のマルセル・モイーズにフルートを師事したことは有名な話だ。彼女は随筆の中で、しばしばそのことに触れている。
1930年(昭和5年)、毎日新聞社の特派員として声楽家・荻野綾子とともに渡欧した深尾は、荻野がパリでレコードの吹き込みをした際に、オーケストラの一員として参加していたモイーズに渡りを付けたことにより、モイーズからフルートの手ほどきを受けることとなる。1930年といえば、まさにモイーズがフルート奏者として最も脂ののりきった時期だ。彼女の随筆はこの時期のモイーズの様子を伝える貴重な資料でもあるのだが、なかなか深尾の随筆を我々が目にする機会はなかった。ところが1988年、深尾の随筆や詩、小説を集めた「マダム・Xの春」という書物(小沢書店)が出版されたおかげで、それが陽の目を見ることとなった。いくつか、モイーズの当時の面影と、モイーズより実は1歳年上の深尾が僥倖にとまどいながらも真剣にレッスンを受けた様子を伝える部分の抜粋をご紹介しよう。
『私の師事していたフリュウトの妙手モイイズ氏は、丁度モン・マルトル丘上の、夜目にも白き白亜の寺院サクレ・カアルに近いドルセ街49番地に住んでいた。そこの稽古部屋で1週に1度若い弟子達と一緒に、私は勿体ないようなモイイズ氏の教授を受けたのだが(中略)モイイズ氏は目下巴里の国立音楽学校の教授で、その傍ら巴里管弦楽団(パリ音楽院管弦楽団)の一員として妙技をふるっているが、その独奏ぶりの完璧さはいうだけおこがましいのは勿論、管弦楽の中でフリュウトの役目とされている装飾の二字を氏ほどに生かすことの出来るものも、また古今絶無だ。それこそは絹ビロオドの上に施される金糸、銀糸の刺繍のあやである。(中略)モイイズ氏は自動車にかけてもひとかどの通で、その運転も巧みなものだ。氏のいうところによると、フリュウトの奏法と自動車の運転法の間には非常に密接な関係があるらしい。』【随筆「モン・マルトルのことなど」より】
次は短編小説の一部なのだが、当然「フリュウト」となるべきところが文中では「オオボオ」になっている。またモイーズと思われる人物は「E氏」となっている。彼女の私生活との混同を避けるための言い換えなのだと思うが、ここでは勝手ながら「オオボオ」は「フリュウト」に、「E氏」は「M氏」に置き換えて紹介させていただく。ほとんど事実なのだから・・・。
『まあ公よ、前にも云ったフリュウトだがね、わたしはこの頃また始めているよ。世界一のフリュウトの名手M氏について、心ゆくばかり抒情的な音を出している。巴里! とだけで既に既に日本の尖端どころには侮蔑のたねだ。かりにもモスクワあたりを口にしないかぎり。しかもその巴里で抒情味たっぷりなフリュウトを吹いている。おお!わたしは彼等に卑しめられるに十分過ぎる。だがありがたいことだ。ゲラ刷りのポスタア小説(?)や、野豚の感覚まる出しの新鋭物語(?)等々を銭や虚名にかえるよりもたしかにましだからね。授業料にもこと欠きながらいとせめてフリュウトを習う女!何とやりきれないことだろう。食えないことだろう。一文にもならないことだろう。だがわたしは楽しいのだよ。(中略)
まあ公よ、再び、わたしはフリュウトを習っている。けいこは1週に1回、何しろその日が楽しみで楽しみで、モンマルトルの横町の古いアパアトの6階に棲んでいるM先生のところへ昇って行くのが、さながら天上するものの歓喜だ。観念的だと笑うなら笑うがいい。あの真白な寺サクレカアルの鐘がいっそ近すぎるそのアパアトの、そのまた古さ粗末さといったら、まず正直なところ区役所か郵便局あたりの雇か電車の車掌向きといったあんばいだ。いつかジュネエヴに国際音楽競技が催された時、仏蘭西を代表するオオケストラが世界一の折紙をつけられたのは、その一員としてフリュウトの妙技を揮うたM先生があったためであることは隠れのない事実だ。当時の欧州の新聞は一様にM先生を仏蘭西の国宝にまつりあげたくらいだ。そのM先生ともあろうものがこの謙虚な生活ぶりだ。(中略)電気もまだ引かれていないこの建物にエレベエタアなどはいうだけが野暮だ。階段は昼も手さぐり、大方傾いたドアと云うドアはとっ手までがむしれて、下のすき間から、夕方など青いガスの火が洩れている。ベルなど満足についている家は一軒もないらしい。M先生の宅もそうだ。そこで訪問者は必ずノックの必要がある。コツコツとやる。するとどっしりした足音がして大抵の場合M先生自身がとりつぎ役だ。奥さんなどは(子供もある)めったに顔を見せない。M先生のなりがまた実にふるっている。いつもきまったようにすりきれた古ずぼんと、これもつぎだらけの手編みのセエタアだ。/ぎっしり詰まった譜面棚などで只さえ狭いけいこ部屋は3人くらいがせいぜいだ。はいって椅子に腰をおろす間もなく直にけいこだ。M先生は角形の大パイプを手なれのフリュウト一管に持ちかえる。それがいったん先生の唇にあてがわれるやいなや、わたしが吹くさすがの抒情的なフリュウトの音もどこへやら、あたりはたちまち大パイプ・オルガンそっくりの調べで振動する。M先生のフリュウトはたしかにパイプ・オルガン以上だ。まる一時間、わたしはまたしても汗を拭く、けいこというのはよくよく熱いものだ。』【小説「さぼてんの花」より】
『パリにいったらあの人にも、この人にもと、私は三十数年この方なじみの人々の顔を描いていた。(中略)フリュートの恩師モイーズはニューヨークに住んで不在。それでも弟子仲間だったアンリ・ルボンや三年あまりもフリュートの手引きをしていただいたドラゴン夫人にめぐり会えたのはうれしかった。いずれもそれぞれに年をとっていた。アンリ・ルボンは、シャンゼリゼー劇場づきのフリュート奏者で、もういいおじさん、フリュートの音色はモイーズそっくりだった。(中略)フリュートを吹いているか、とたずねられ、「ときどき吹いています」と答えると「えらい、えらい」とほめられ、私はがらにもなく赤くなった。過ぎ去った三十数年の時をとおして、私はそこに、フリュートを大事に小わきにかかえ、モンソオ公園をぬけては師のもとに通った他人みたいな私のすがたを思い返した。なにもかも三十年のむかしだ。私も若かった。』【随筆「古巣をたずねて」より】
「モイーズはニューヨークに住み」は深尾の誤解だと思います。アメリカに住んでいることは知っていたのでしょうが、どこに?までは知らなかったのか?
とりとめもなく、いつものようにこの章おしまい。
(1999年4月18日室長Kirio)
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