なぜモイーズはリングキーフルートを「ナンセンスだ」と言ったのか?

マルセル・モイーズが残した言葉に、「フレンチモデル(リングキーフルート)を使っているからフレンチスクールと言うものではない」「リングキー? ナンセンスだね。」

というのがあります。(原文を書き写したわけではなく私の記憶です)

彼にはアメリカ移住後も自分こそがフレンチスクールの伝統の継承とそこからの発展を担う者であるという気持ちが大きかったのでしょう。

フレンチモデルを使い、我こそは偉大なフレンチスクールの継承者だ、後継者だと言ってはばからない奏者たちへの反発もあったことでしょう。

しかし、モイーズがリングキーをナンセンスだと言い切ったのは彼の感情的な悪口だったでしょうか?

私はそうは思いません。

モイーズの著したエクササイズで最も有名で最も多くのフルーティストたちに今でも買われ使われているのは、「ソノリテについて」でしょう。

これは、フルートという楽器をヴァイオリンやピアノ、歌手、あるいはオーケストラのように存分に音楽を表現することができるように発展させるために書かれました。

しかし、この「ソノリテについて」のアイデアはモイーズ独自のものなのだろうか?

私は近年、その原点は他でもないテオバルト・ベームにあるのではないかと確信するようになりました。

ベーム式フルートがどのように生まれ、改良を重ねて現在の形になったのか?については、さまざま詳しい書物がありますから、ここではその詳細を説明することはしませんが、その前時代のフルートとどこが違うのか?について考えてみましょう。

前時代のフルートはさまざまなシステムが存在してはいましたが、その根幹は6つの直接指で塞ぐトーンホールと1個のクローズドキーしかなかったフラウトトラヴェルソをベースに半音階をクロスフィンガリングで行わなくてすむように1つから4つ、8つ12個と徐々に追加された補助的なクローズドキーを持ったものでした。

この楽器はそれらのキーを使わなくても、そのままフラウトトラヴェルソとして演奏することが可能なほどです。

ベームはオクターブに存在する12の半音階の音総てに独立するトーンホールを設けます。

(第2オクターブのD、E♭のオクターブキーを兼務させるために、基準値よりやや上方に小ぶりなサイズで配されたC#ホールだけは妥協せざるを得ませんでした)

ベームはこれらのトーンホールを楽器の保持のために専念している右手親指以外の9本の指でキーを開閉してコントロールするために、隣接、あるいは距離を置いたキーを巧みに連動させる装置を配しました。その動作は見事と言わざるを得ません。

初期の頃のベームフルートではトーンホールはまだ指で塞げるほどの大きさでしたので、一部のキーは本体のホールを指で直接塞ぎ、他のキーとの連動はトーンホールを囲むように配したリングキー(パッドはついていない)によるものでした。

ベームフルートは最初はトラヴェルソと同じく逆円錐管のボディーでしたが、ベームは音響的な能力アップを目指して頭部管を円錐でボディーを円筒という現在の形に変更しました。そして、トーンホールのサイズもより大きくしていった結果、そのサイズは最終的にはトーンホールを直接指で塞ぐことが出来ないほどになり、総てのキーをカバードタイプとしました。

初めは指で塞ぎきれないほどの穴のサイズとなったためにキーを総てカバードにして、そのことによりトーンホールからのベンチレーション(通気)効率を落とさないために、さらに一層大きなトーンホールが必要になったのかもしれません。

この結果、フルートは総ての音に対して均一な音響環境が整いました。

最初は大きな豊かな音を目指して改良を始めたベームですが、試行錯誤を重ねる中で、この総ての音の響きの均一性に向かったのはベームの最も偉大なところだと思います。

さて、この「総ての音の響きの均一性」って.....

そうです、モイーズの「ソノリテについて」が目指したことと全く同じなのです。

つまり、モイーズは「ベームの基本に立ち返った」または、「立ち返ることを促した」のです。

ここで「立ち返る」と言ったのにはわけがあります。

ドイツ人であるベームが改良開発したベーム式フルートは彼の本国ではなかなか受け入れられなかったところ、いち早くこれを認めたのは他でもないパリ音楽院でした。

ベームが円筒管金属製ベーム式フルートの特許を取得したのが1847年、パリ音楽院が公式楽器としてこれを採用したのは1860年です。

しかし、ここでパリのルイ・ロットをはじめとするフルート製作者たちやフルート奏者たちは一つの大きな間違いを犯してしまいます。

ベームの1847年特許の特徴的な大きなカバードキーのうち、左右の指が直接触れる5つのキーに指で塞ぐための穴を開けてしまう......

なぜこんなことをしたのか?についてはここでは触れません。

しかし、これはベームが彼のフルート開発で心血を注いだ、過去のフルートとの最大の違いである「総ての音の響きの均一性」のためのメカニズムの破壊行為でした。

その理由についてはクーパースケールの開発者である、クーパー氏がゴールウェイの著書「フルートを語る」の中で寄稿した「私のフルート製作」の章で詳細に述べています。

つまり、この5つの穴はベームが新システムで追い払ったはずの過去の亡霊「フルートの音域内における音の響きの不均等」の復活なのです。

モイーズはその鋭い感覚と音楽院教授に成り上がるまでのさまざまな音楽シーンでの活動の中で、そのこと(「フルートの音域内における音の響きの不均等」の存在)とパリの有名工房の犯したもう一つの間違いに気がついたのです。

それはフルートのトーンホールの位置とサイズを演奏ピッチの違いによって変更しなければいけないということ。パリのフルート製作者たちは当時の演奏ピッチが徐々に上昇してきていてA=440Hzを超えようとしているとき、A=435Hz時代以降それを行っていなかった。(奏者の中には苦し紛れに頭部管を切り詰めたものも少なくなかった。モイーズもそれを行い、結果スケールバランスが崩れて使い物にならなかったと述べています。私も10代の後半にYAMAHAのスチューデントモデルで同じことをして、その結果がどうなるか?はよく知っています。笑)

演奏ピッチが変化した場合に、トーンホールの配置は規則性を持って変化させなければならないことは、ベームがしっかりと図解しています。

モイーズは実際にパリのルイ・ロットにスケール設計の変更を求めましたが断られています。

その理由は、「モイーズさん、あなたの偉大な先生であるタッファネルもゴーベールも私どものフルートを問題なく使っていただいておりますよ?」みたいな当時すでにパリのトップ奏者の一人であったモイーズにはたいへん慇懃無礼なものであったらしい。

頭にきたモイーズは、フルート製造専門ではない(日本のYAMAHAを想像していただくと近いものがある)ケノン社(Couesnon)に毎週通って独自の設計を共同開発して1930年頃にCouesnon Monopole(Marcel Moyse model)が生み出された。その楽器の樽部分にはモイーズがパリ音楽院教授に就任してからはMarcel Moyse の名前と共にConservatoire の文字も刻まれている。


で、ご存知の通り、そのモデルはなんとカバードモデルなのです。さらにベームが説いたとおりにトーンホール設計も演奏ピッチに最適化されている。(やっとここに戻ってきた!)

つまり、Couesnon Monopole Marcel Moyse modelは彼のパリの先輩たちが壊してしまったテオバルト・ベームのベーム式フルートの基本への回帰なのです。相当の覚悟あってのことだろうと思いますが、それまでのモイーズが演奏活動で得た確固たる自信もあってのことでもあったでしょう。

モイーズの「ソノリテについて」が出版されるのは1934年です。楽器においてのベームへの回帰を果たした後に、モイーズはベームが彼のフルートの設計において最も重要視したことの一つである「総ての音の響きの均一性」をテーマにこれを世に問うたのです。

「リングキー? ナンセンスだね。」

とモイーズが言ったのは、そういうわけなのだと思いますよ。

ですから....ひょっとするとリングキー(オープンホール)のそのフルート....正確にはベーム式フルートではないかもしれませんよ?

2021.6.23. 室長 松田霧生


このコラムを書くにあたってこちらの研究論文がとても役に立ちました。感謝。


愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程 丹下聡子 著

アルテスのフルート教本再考

――導音の奏法に見る 19 世紀の美意識――

https://ai-arts.repo.nii.ac.jp/index.php?

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マルセル・モイーズ研究室

「私の死後にも、音楽への敬意という伝統をフルートを吹く人々に残してゆきたいものだ」 マルセル・モイーズ 20世紀最大のフルート奏者の一人とも称されるマルセル・モイーズの足跡を辿るサイトです。 (スマホの方は左上のメニューバーからお入り下さい。)