深尾須磨子とモイーズの出会い

 写真は右:深尾須磨子(もちろんフルートを吹いている方が深尾女史)と左:深尾の友人でハープを弾く荻野綾子(声楽家)。

 深尾須磨子は戦前に3回の渡欧を果たしている。

 第1回は大正14年(1925)~昭和3年(1928)

 第2回は昭和5年(1930)~昭和7年(1932)

 第3回は昭和14年(1939)~昭和15年(1940)である。深尾がモイーズに学ぶのは第2回目だが、その前の渡欧時に深尾はフルートの魅力にとりつかれ、ドラゴンという女流フルーティストにレッスンを受けている。では、なぜ詩人、深尾須磨子がモイーズにフルートを学ぶことが出来たのか?

 そこには荻野綾子の存在が関係している。荻野は第1回、第2回の深尾の渡欧に同行しており、この時の深尾の回想が『素顔の巨匠たち』(音楽之友社刊)に載っている。


 『1930年に私はまたパリにゆきました。前の時も友人の声楽家の荻野綾子さんと一緒でしたが、今度もそうでした。そして、またドラゴン先生につこうとしたところ、荻野さんは、理屈屋なもんで、せっかく習うなら、あんな先生についても意味がないというんですよ。私はそれに反論して、とても好きな先生だし、喜んで勉強しているんだといったんですが、彼女は「モイーズをみてごらんなさい、あれが本当のフルートで、ドラゴンのフルートは、きれいごとだけなのよ」といってきかないんです。だけど、モイーズは、はるか遠い存在なので、私がついて勉強できるとは思っていなかった。』

 どうも最初、モイーズに惚れ込んだのは荻野綾子の方だったようだ。

 ちなみにドラゴン女史は1917年エネバンの代理でパリ音楽院のクラスを受け持っていたラフルーランスのクラスを卒業している。

 『ところが不思議なことに、それが実現したんですよ。そのころ荻野さんが向こうで録音をしましてね、日本の歌かなんかの吹込みをしたんです。そのときに、室内楽のような形の伴奏のなかに、やはりモイーズが入っていたんですね。それで荻野さんがモイーズに勝手に相談してしまったんです。モイーズは、いまはそういうアマチュアには教えないが、遠い日本からきてフルートを習っているような人なら、まあよこしてごらんといってくれたんです。』


 僕の手元に、どうもこの時録音されたレコードではないかと思われるSP盤がある。(写真)

 レーベル印刷は「昼の夢」(高安月郊 作詞、梁田貞作曲)、歌唱荻野綾子、伴奏コッポラ指揮パリ交響管弦楽団(フリュート助奏附)となっている。マトリクスなどを見ると、おそらく1930年頃の録音と思われる。この歌は、フルートあるいはヴァイオリンによるオブリガートがついている。僕も一度だけソプラノの方と演奏したことがあるが、なかなか美しい曲だ。フルートの助奏はオーケストラがオフマイクで歌の音量が大きく、なかなか明瞭には聞き取れないが、深尾の証言どおり、交響管弦楽団というよりは室内楽という感じだ。


 『荻野さんは、有頂天になって私のところにかけつけてきましてね、「モイーズがこいといったよう」と叫び、大騒動でした。それで私は、こわごわモイーズ先生のところにいったわけです。それから2年間ほど先生についたんです。』

 モイーズ夫人は日仏のハーフだったということも、ひょっとしたらモイーズが深尾を教えようと思うきっかけになったのかもしれない・・・、などと想像しながら、とりとめもなくこの章終わり。

(2000年3月6日 室長Kirio)

マルセル・モイーズ研究室

「私の死後にも、音楽への敬意という伝統をフルートを吹く人々に残してゆきたいものだ」 マルセル・モイーズ 20世紀最大のフルート奏者の一人とも称されるマルセル・モイーズの足跡を辿るサイトです。 (スマホの方は左上のメニューバーからお入り下さい。)